ye punar ānanda sattvās taṃ tathāgataṃ daśacittotpādāt samanusmariṣyanti spṛhāṃ ca tasmin buddhakṣetra utpādayiṣyanti gambhīreṣu ca dharmeṣu bhāṣyamāṇeṣu tuṣṭiṃ pratilapsyante na vipatsyante na viṣādam āpatsyante na saṃsīdam āpatsyante 'ntaśa ekacittotpādenāpi taṃ tathāgataṃ manasikariṣyanti spṛhāṃ cotpādayiṣyanti tasmin buddhakṣetre te 'pi svapnāntaragatās tam amitābhaṃ tathāgataṃ drakṣyanti sukhāvatyāṃ lokadhātāv upapatsyante 'vaivartikāś ca bhaviṣyanty anuttarāyāḥ samyaksaṃbodheḥ //
また、アーナンダよ、衆生たちが、かの如来を十たび心を起こすことによって随念し、かの仏国土に対して切望を起こし、またもろもろの深遠な法が説かれるときに、満足を得て、ひるむことなく、絶望におちいらず、落胆におちいることなく、たとえ一たび心を起こすことだけでも、かの如来を思念し、かの仏国土に対して切望を起こすであろうならば、かれらもまた、夢の中にあってかのアミターバ如来にまみえるであろう。そして極楽世界に生まれ、無上なる正等覚より退転しない者となるであろう。
§29. 'And again, O Ānanda, those beings who meditate on the Tathāgata by giving him the ten thoughts, and who will direct their desire towards that Buddha country, and who will feel satisfaction when the profound doctrines are being preached, and who will not fall off, nor despair, nor fail, but will meditate on that Tathāgata, if it were by one thought only, and will direct their desire toward that Buddha country, they also will see the Tathāgata Amitābha, while they are in a dream, they will be born in the world Sukhāvatī, and will never turn away from the highest perfect knowledge.
ཀུན་དགའ་བོ་སེམས་ཅན་གང་དག་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་དེ་ ཐ་ན་སེམས་བསྐྱེད་པ་གཅིག་ཙམ་རྗེས་སུ་དྲན་པར་བྱེད་ཅིང་སངས་རྒྱས་ཀྱི་ཞིང་དེར་སྐྱེ་བར་ཡང་འདོད་ལ། ཆོས་ཟབ་མོ་དག་འཆད་པ་ན་དཀའ་བ་འཐོབ་ཅིང་སྒྱིད་ལུག་པ་མེད་ལ་མི་འགོང་མི་ཞུམ་ཞིང་ཐ་ན་སེམས་བསྐྱེད་པ་གཅིག་ཙམ་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་འོད་དཔག་མེད་དེ་ཡིད་ལ་བྱེད་དེ། འདོད་པ་ཡང་སྐྱེད་ན་དེ་དག་རྨི་ལམ་ན་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་འོད་དཔག་མེད་དེ་མཐོང་ཞིང་འཇིག་རྟེན་གྱི་ཁམས་བདེ་བ་ཅན་དེར་སྐྱེ་བར་འགྱུར། བླ་ན་མེད་པ་ཡང་དག་པར་རྫོགས་པའི་བྱང་ཆུབ་ལས་ཕྱིར་མི་ལྡོག་པར་ཡང་འགྱུར་རོ། །
kun dga' bo sems can gang dag de bzhin gshegs pa de tha na sems bskyed pa gcig tsam rjes su dran par byed cing sangs rgyas kyi zhing der skye bar yang 'dod la/ chos zab mo dag 'chad pa na dka' ba 'thob cing sgyid lug pa med la mi 'gong mi zhum zhing tha na sems bskyed pa gcig tsam de bzhin gshegs pa 'od dpag med de yid la byed de/ 'dod pa yang skyed na de dag rmi lam na de bzhin gshegs pa 'od dpag med de mthong zhing 'jig rten gyi khams bde ba can der skye bar 'gyur/ bla na med pa yang dag par rdzogs pa'i byang chub las phyir mi ldog par yang 'gyur ro/ /
阿難陀よ、衆生の或者がかの如来を少しにても心に念じ唯だ一度憶念して、かの仏の浄土に生ずることを欲して、深遠なる法などを説かれる時、歓喜を得て躅躇なく、誘惑せられず、畏怖せずして、少くとも心を生ずること唯だ一度、かの無量光如来を観じて望をも生ずるならば彼等は夢に無量光如来を見て極楽世界に生れるのである。無上完全円満の菩提から退転しないのである。
仏言。其三輩者。其人願欲往生阿弥陀仏国。若無所用分檀布施。亦不能焼香散華然灯。懸雑繒綵。作仏寺起塔。飯食諸沙門者。当断愛欲無所貪慕。得経疾慈心精進。不当瞋怒。斎戒清浄。如是法者。当一心念欲往生阿弥陀仏国。昼夜十日不断絶者。寿命終即往生阿弥陀仏国。可得尊敬。智慧勇猛。仏言。其人作是以後。若復中悔。心意狐疑。不信作善後世当得其福。不信往生阿弥陀仏国。其人雖爾。続得往生。其人寿命病欲終時。阿弥陀仏。即令其人。於臥止夢中。見阿弥陀仏土。心中大歓喜。意自念言。我悔不知益作諸善。今当往生阿弥陀仏国。其人但念是。口不能復言。即自悔過。悔過者差減少悔無所復及。其人命終。即生阿弥陀仏国。不能得前至。便道見二千里七宝城中。心独歓喜。便止其中。亦復於七宝浴池蓮華中化生。即自然受身長大。其城亦復如前城法。比如第二忉利天上自然之物。其人亦復於城中。五百歳竟乃得出。至阿弥陀仏所。心中大喜。其人聴聞経。心不開解。意不歓楽。智慧不明。知経復少。所居舎宅在地。不能令舎宅随意高大在虚空中。復去阿弥陀仏大遠。不能得近附阿弥陀仏。亦復如是。第二中輩狐疑者也。其人久久。亦当智慧開解。知経勇猛。心当歓楽。次如上第一輩也。所以者何。皆坐前世宿命求道時。中悔狐疑。暫信暫不信。不信作善得其福徳。皆自然得之爾。随其功徳有所鉉不鉉。各自然趣向。説経行道。卓億万超絶不相及。
(第三輩)
仏は仰った。
「第三種の人々とは(次の様である)。人々が、阿弥陀仏の国に生まれたいと願いつつも、もし、施せる物が何もなく、また香を焚き、花を散らし、灯火を燃やし、様々な綾絹を懸け、仏塔を建て、沙門たちに食事を与えることができないならば、愛欲を断じ、欲望をなくし、教えを得たらすぐさま慈しみの心をいだいて精進し、怒りを抱かず、きちんと(八)斎戒をまもるべきだ。このような法(を行う者)が、ひたすら阿弥陀仏国に生まれることを念じ、十日十夜絶えまなく(そのことを思念するならば)、寿命が尽きるとすぐに阿弥陀仏国に生まれ、尊敬もされ、智慧と勇敢さをも得ることができる。」
(第三輩のうち、疑念をもつ者)
仏は仰った。
「彼らはこれらをなして後、もし後悔し、疑念を抱き、“善行をすれば後の世でその果報を得る”ということを信じなくなり、阿弥陀仏国に生まれるということを信じなくなるとしても、彼らはそれでもやはり(阿弥陀仏国に)生まれることができる。その人たちが病気で寿命が尽きようとするとき、阿弥陀仏は横になって休んでいる彼らに夢の中で阿弥陀仏の国土を見せる。(彼らは)とても喜び、次のように考える。『私はおおいに善行をなすことを知らなかったことを懺悔する。今まさに阿弥陀仏国に生まれようとしている』と。彼らにはもう何も言う力がなく、ただこのように念じるだけ。彼らは過ちを懺悔する。過ちを懺悔すれば、(過ちの報いは)やや軽くなるが、懺悔してももはや手遅れ。彼らは寿命が尽きてすぐに阿弥陀仏の国に生まれるが、前には進めない。すると途上で(横・縦)二千里ある、七宝でできた城を見て、とても喜び、そのままそこに留まる。(彼らも)また七宝でできた池(に生える)蓮の花のなかにすっと生じ、自然に身体を得、成長する。その城もまた前述の城と同様で、(天界の下から)第二番目の忉利天の様に自在に物が生じる。彼らもまた城の中で五百年過した後やっとそこから出ることができる。阿弥陀仏のもとへ行き、大変喜ぶ。(しかし)教えを聞いても、理解できず、楽しくもならない。彼らは智慧が少なく、また教えをあまり知らない、彼らの住居は地上にある。住居を思いのままに高く大きく、空中に浮かばせることはできない。また阿弥陀仏からとても遠く、阿弥陀仏に近づくことができないことも、第二種、中級の人々の中の疑い深い人たちの場合と同様だ。長い時間がたてば彼らも智慧をつけ、教えをはっきりと理解し、勇敢になり、(教えを)喜ぶようになるはずだ。上述の第一種の人々よりは一段劣るが似たようになる。なぜこうなるかというと、(彼らは)みな前世、過去世で道を求めていた時に、途中で後悔し、(仏道に)疑念を抱き、信じたり信じなかったりして、“善行をすればその果報を得る”ということを信じなかったために、みな当然こうなるのだ。それぞれの功徳がすくい上げるかどうかによって、それぞれ行き先が決まるのだが、教えを説き仏道を行うことは、(この点で他の)億万のことをはるかに卓越している。(以上が第三種の人々である。)」
仏言。其三輩者。其人願欲生無量清浄仏国。若無所用分檀布施。亦不能焼香散華然灯懸繒綵作仏寺起塔飲食沙門者。当断愛欲無所貪慕。慈心精進不当瞋怒。斎戒清浄。如是清浄者。当一心念欲生無量清浄仏国。昼夜十日不断絶者。寿終則往生無量清浄仏国。可復尊極智慧勇猛。仏言。其人作是已後。若復中作悔心。意用狐疑。不信作善後世当得其福。不信往生無量清浄仏国。其人雖爾続得往生。其人寿命病欲終時。無量清浄仏。則令其人於臥睡夢中。見無量清浄仏国土。其人心中歓喜。意自念言。我悔不知益作善。今当生無量清浄仏国。其人但心念是。口不能復言。則自悔過。悔過者過差減少。悔者無所復及。其人命終。則生無量清浄仏国。不能得前至。便道見二千里七宝城。心中独歓喜。便止其中。復於七宝水池蓮華中化生。則自然長大。其城亦復如前城法。比第二忉利天上自然之物。其人亦復於城中五百歳。五百歳竟乃得出。生無量清浄仏所。心中大歓喜。其人聴聞経。心不開解。意不歓喜。智慧不明。知経復少。所居舎宅在地。不能令舎宅随意高大在虚空中。復去無量清浄仏。亦復如是。第二輩狐疑者。其人久久。亦当智慧開解知経。勇猛心当歓楽。次如上第一輩也。所以者何。皆坐前世宿命求道時。中悔狐疑。暫信暫不信。不信作善後得其福徳。皆自然得之耳。随其功徳有鉉不鉉。各自然趣向。説経行道卓徳万殊超不相及。
仏語阿難。其下輩者。十方世界諸天人民。其有至心欲生彼国。仮使不能作諸功徳。当発無上菩提之心。一向専意乃至十念。念無量寿仏願生其国。若聞深法歓喜信楽不生疑惑。乃至一念念於彼仏。以至誠心願生其国。此人臨終。夢見彼仏亦得往生。功徳智慧次如中輩者也
阿難。若有衆生住大乗者。以清浄心向無量寿如来。乃至十念念無量寿仏願生其国。聞甚深法即生信解。心無疑惑乃至獲得一念浄心。発一念心念無量寿仏。此人臨命終時。如在夢中見無量寿仏。定生彼国得不退転無上菩提。
復次阿難。若有善男子善女人。発十種心。所謂一不偸盗。二不殺生。三不婬欲。四不妄言。五不綺語。六不悪口。七不両舌。八不貪。九不瞋。十不痴。如是昼夜思惟極楽世界無量寿仏。種種功徳種種荘厳。志心帰依頂礼供養。是人臨終。不驚不怖心不顛倒。即得往生彼仏国土。有無量無数諸仏世尊。称讃無量寿仏功徳名号。聞是法已。永不退於阿耨多羅三藐三菩提
仏説大乗無量寿荘厳経巻中