ye punas taṃ tathāgataṃ na bhūyo manasikariṣyanti na ca bahv aparimitaṃ kuśalamūlam abhīkṣṇam avaropayiṣyanti tatra ca buddhakṣetre cittaṃ saṃpreṣayiṣyanti teṣāṃ yādṛśa eva so 'mitābhas tathāgato 'rhan samyaksaṃbuddho varṇasaṃsthānārohapariṇāhena bhikṣusaṃghaparivāreṇa tādṛśa eva buddhanirmito maraṇakāle purataḥ sthāsyati / te tenaiva tathāgatadarśanaprasādālambanena samādhināpramuṣitayā smṛtyā cyutās tatraiva buddhakṣetre pratyājaniṣyanti //

また、かの如来を多くは思念せず、また多くの無量の善根をしばしば植えることもしないけれども、かしこの仏国土に心をかけるであろう者たちがいるならば、色どり・形状・高さ・広さの点でも、比丘僧団にとりまかれている点でも、かのアミターバ如来・応供・正等覚者と全く同じ化仏が、かれらの臨終に、面前に立たれるであろう。かれらは、まさに如来にまみえることによる浄信にもとづく三昧によって、憶念を失わずに、死没して、まさしくかしこの仏国土に生まれるであろう。

§28. 'But before the eyes of those who do not care much about the Tathāgata Amitābha, and who do not vigorously increase the great and unmeasured stock of their good works, the Tathāgata Amitābha, holy and fully enlightened, will appear, at the time of death, with the company of Bhikshus, in breadth and height and form and beauty, very like (the former), and very like (the real Tathāgata), but only created by thought. And they, through their meditation that dwells on perceiving the sight of the Tathāgata, and with unfailing memory, will, when they have died, be born in the same Buddha country.

ཀུན་དགའ་བོ་གང་དག་ཡང་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་དེ་ཡང་ཡིད་ལ་བྱེད་ཅིང་དགེ་བའི་རྩ་བ་མང་པོ་དཔག་ཏུ་མེད་པ་རྒྱུན་ཏུ་བསྐྱེད་ལ། སངས་རྒྱས་ཀྱི་ཞིང་དེར་ སེམས་ཡང་དག་པར་གཏོད་པ་དེ་དག་འཆི་བའི་དུས་ཉེ་བར་གནས་པ་ན་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་དགྲ་བཅོམ་པ་ཡང་དག་པར་རྫོགས་པའི་སངས་རྒྱས་འོད་དཔག་ཏུ་མེད་པ་དེའི་ཁ་དོག་དང། དབྱིབས་དང། ཆུ་ཞེང་དང། ཞབས་འབྲིང་བ་དགེ་སློང་གི་དགེ་འདུན་ཅི་འདྲ་བ་དེ་འདྲ་བའི་སངས་རྒྱས་ཀྱི་ སྤྲུལ་པ་དག་མདུན་དུ་གནས་པར་འགྱུར་ཏེ། དེ་དག་དེ་བཞིན་གཤེགས་པ་མཐོང་བས་རབ་ཏུ་དང་བ་ལ། དམིགས་པའི་ཏིང་ངེ་འཛིན་དེ་དང། རྗེད་པ་མེད་པའི་དྲན་པས་ཤི་འཕོས་ནས་སངས་རྒྱས་ཀྱི་ཞིང་དེ་ཉིད་དུ་སྐྱེ་བར་འགྱུར་རོ། །

kun dga' bo gang dag yang de bzhin gshegs pa de yang yid la byed cing dge ba'i rtsa ba mang po dpag tu med pa rgyun tu bskyed la/ sangs rgyas kyi zhing der sems yang dag par gtod pa de dag 'chi ba'i dus nye bar gnas pa na de bzhin gshegs pa dgra bcom pa yang dag par rdzogs pa'i sangs rgyas 'od dpag tu med pa de'i kha dog dang/ dbyibs dang/ chu zheng dang/ zhabs 'bring ba dge slong gi dge 'dun ci 'dra ba de 'dra ba'i sangs rgyas kyi sprul pa dag mdun du gnas par 'gyur te/ de dag de bzhin gshegs pa mthong bas rab tu dang ba la/ dmigs pa'i ting nge 'dzin de dang/ rjed pa med pa'i dran pas shi 'phos nas sangs rgyas kyi zhing de nyid du skye bar 'gyur ro/ /

阿難陀よ、誰かが又かの如来を観じて多数無量の善根を常に植えて、その仏国土に心を正しく放つ所の者等は死の時近くなれるに当りて、如来降伏敵者完全円満の無量光仏が御身の色と相と容貌と従者の比丘の僧侶で如実に等しき仏の化身等が現前に住することとなる。そうして彼等は如来を見るが故に最勝清澄を観する三昧と、無忘の憶念を以て、死去してその仏国土に生れることとなるのである。

仏言。其中輩者。其人願欲往生阿弥陀仏国。雖不能去家捨妻子断愛欲行作沙門者。当持経戒無得虧失。益作分檀布施。常信受仏経語。深当作至誠中信。飯食諸沙門。作仏寺起塔。散華焼香然灯。懸雑繒綵。如是法者。無所適莫。不当瞋怒。斎戒清浄。慈心精進。断愛欲念。欲往生阿弥陀仏国。一日一夜不断絶者。其人便於今世。亦復於臥止夢中。見阿弥陀仏。其人寿命欲終時。阿弥陀仏即化。令其人目自見阿弥陀仏及其国土。往至阿弥陀仏国者。可得智慧勇猛。仏言。其人奉行施与如是者。若其人然後復中悔。心中狐疑。不信分檀布施作諸善後世得其福。不信有弥陀仏国。不信有往生其国。雖爾者。其人続念不絶。暫信暫不信。意志猶予無所専拠。続其善願為本故得往生。其人寿命病欲終時。阿弥陀仏。即自化作形像。令其人目自見之。口不能復言。但心中歓喜踊躍意念言。我悔不知益斎戒作善。今当往生阿弥陀仏国。其人即心自悔過。悔過者小差少無所復及。其人寿命終尽。即往生阿弥陀仏国。不能得前至阿弥陀仏所。便道見阿弥陀仏国界辺自然七宝城中。心便大歓喜。便止其城中。即於七宝水池蓮華中化生。則受身自然長大在城中。於是間五百歳。其城広縦各二千里。城中亦有七宝舎宅。中外内皆有七宝浴池。浴池中亦有自然華香繞。浴池上亦有七宝樹重行。亦皆復作五音声。其欲飯食時。前有自然食。具百味飲食。在所欲得応意皆至。其人於城中亦快楽。其城中比如第二忉利天上自然之物。雖爾其人城中不能得出。復不能得見阿弥陀仏。但見其光明。心自悔責。踊躍喜耳。亦復不能得聞経。亦復不能得見諸比丘僧。亦復不能得見知阿弥陀仏国中諸菩薩阿羅漢状貌何等類。其人愁苦。如是比如小適耳。仏亦不使爾身行所作自然得之。皆心自趣向道。入其城中。其人本宿命求道時。心口各異。言念無誠信。狐疑仏経。復不信向之。当自然入悪道中。阿弥陀仏哀愍。威神引之去爾。其人於城中。五百歳乃得出。往至阿弥陀仏所聞経。心不開解。亦復不得在諸菩薩阿羅漢比丘僧中聴経。以去所居処舎宅在地。不能令舎宅随意高大在虚空中。復去阿弥陀仏甚大遠。不能得近附阿弥陀仏。其人智慧不明。知経復少。心不歓喜。意不開解。其人久久。亦自当智慧開解知経。明健勇猛。心当歓喜。次当復如上第一輩。所以者何。其人但坐前世宿命求道時。不大持斎戒。毀失経法。意志狐疑。不信仏語。不信仏経深。不信分檀布施作。善後世当得其福。復坐中悔。不信往生阿弥陀仏国。作徳不至心。用是故爾。是為第二中輩

(第二輩) 仏は仰った。 「中級の人々とは(次の様である)。人々が、阿弥陀仏の国に生まれたいと願うならば、たとえ家を出て、家族を捨て、愛欲を断って、沙門になることができなくても、教えに基づく戒をきちんと守り、大いに布施をして、奥深い仏の教えの言葉を常に信じ受け入れ、まごころと誠実さを実践し、沙門たちに食事を与え、仏塔を建て、花を散らし、香を焚き、灯火を燃やし、様々な綾絹を(塔に)懸けるべきだ。このような法(を行う者)が、好き嫌いをなくし、怒りを抱かず、きちんと(八)斎戒をまもり、慈しみの心をいだいて精進し、愛欲を断じ、阿弥陀仏国に生まれることを念じ、一日一夜絶えまなく(そのことを思念するならば)、その人たちはこの世で、(第一種の人々と)同じく横になって休んでいると夢の中で阿弥陀仏を見る。その人たちの寿命が尽きようとするときに、阿弥陀仏はすぐさま幻相を現し、その人たちに阿弥陀仏とその国土を自分の目で見させる。(彼らが)阿弥陀仏国に到達すれば、智慧と勇敢さを得ることができる。」 (第二輩のうち、疑念をもつ者) 仏は仰った。 「彼らはこのように布施を行うのだが、その彼らがもし後になって後悔し、疑念を抱き、“布施をして善行をすれば後の世でその果報を得る”ということを信じなくなり、阿弥陀仏国の存在を疑い、その国に生まれるということを信じなくなるとしても、彼らがそれでもやはり絶えず(阿弥陀仏を)念じ、信じたり信じなかったりして、意志が定まらず、集中できなくても、それでも自分の立派な願いを本に据えれば、やはり(阿弥陀仏国に)生まれることができる。その人たちが病気で寿命が尽きようとするとき、阿弥陀仏はその化身を現し、彼らに自分の目で見させる。彼らにはもう何も言う力がない。ただ心で飛び上がらんばかりに喜び、次のように考える。『おおいに(八)斎戒をまもり善行をなすことを知らなかったことを懺悔する。今まさに阿弥陀仏国に生まれようとしている』と。彼らは心で過ちを懺悔する。過ちを懺悔するれば、(過ちの報いは)少しは軽くなるが(?)、もはや手遅れ。彼らは寿命が尽きてすぐに阿弥陀仏の国に生まれるが、阿弥陀仏のもとには近づけない。すると途上で阿弥陀仏国の端にある、自然の七宝でできた城を見て、大いに歓喜し、そのままその城に留まる。すぐに七宝でできた池(に生える)蓮の花のなかにすっと生じ、身体を得、自然に成長する。城に住み、そこに五百年間(留まる)。その城は、横も縦もそれぞれ二千里ある。城の中には、七宝でできた住まいがあり、住まいの外と内には七宝でできた浴池がある。浴池の中には自然の香りのある花がある。浴池の周辺には七宝樹がいくつもの列に並んでいて、(それらは)みな様々な音色を発している。彼らが食事をしたいと思えば、目の前に自然に食事が現れる。様々な味の食べ物・飲み物が思いのままに手に入り、思いのままにやってくる。彼らは城の中で喜びを享受する。その城では(天界の下から)第二番目の忉利天の様に自在に物が生じる。この様ではあるが、彼らはその城から出ることはできないし、また阿弥陀仏を見ることができない。ただその光明を見て、後悔しつつ(も)、飛び上がらんばかりに喜ぶだけである。また(その)教えを聞くことができないし、比丘たちを見ることができないし、また阿弥陀仏国の菩薩・阿羅漢がどのような姿をしているのかを見て知ることができない。彼らはこのように苦しむが、それはちょっとした罰に他ならない。とはいえ、仏がこのように(苦しませる)わけではない。自分で行った行為によって自然にこうなったのだ。(彼らは)みな心では道(さとり)へ向かっていたのに、この城に入り込んだ。彼らは、その前世で道を求めていたとき、思っていることと言うことが矛盾していて、言葉と考えに誠実さがなく、仏の教えを疑い、またそれを信頼しなかったのだから、悪い境涯に落ちるのが当然なのだが、阿弥陀仏が哀れんで、超人的な力で彼らを(自分の国へと)引き寄せてくれたのだ。彼らは城の中で五百年過ごした後やっとそこから出て、阿弥陀仏のもとへ行くことができる。(しかし)教えを聞いても、理解できず、また菩薩・阿羅漢・比丘たちの中に留まることはできず、教えを聴き終われば去る。彼らの住居は地上にある。住居を思いのままに高く大きく、空中に浮かばせることはできない。また阿弥陀仏からとても遠く、阿弥陀仏に近づくことができない。 彼らは智慧が少なく、また教えをあまり知らず、(教えを)喜ばず、はっきりと理解しない。長い時間がたてば彼らも智慧をつけ教えをはっきりと理解し、賢く強く勇敢になり、(教えを)喜ぶようになるはずだ。上述の第一種の人々よりは一段劣るが似たようになるはずだ。なぜこうなるのか。彼らは前世、過去世で道を求めていた時に、あまり(八)斎戒をまもらず、教えを守らず、疑い深く、仏の言葉を信じず、仏の教えが奥深いということを信じず、“布施をして善行をすれば後の世でその果報を得る”ということを信じなかったために他ならない。また、途中で後悔し、“阿弥陀仏国に生まれる”ということを信じなくなり、功徳を積むことに熱心でなくなったせいでもある。これらのせいに他ならない。以上が、第二種、中級の人々である。」

仏言。其中輩者。其人願欲往生無量清浄仏国。雖不能去家捨妻子断愛欲行作沙門者。当持経戒無得虧失。益作分檀布施。常信受仏語深当作至誠忠信。飯食沙門。而作仏寺起塔。焼香散華然灯。懸雑繒綵。如是法者。無所適貪。不当瞋怒。斎戒清浄慈心精進断欲念。欲往生無量清浄仏国。一日一夜不断絶者。其人於今世。亦復於臥睡夢中。見無量清浄仏。其人寿欲尽時。無量清浄仏。則化令其人自見無量清浄仏及国土。往生無量清浄仏国者。可得智慧勇猛。仏言。其人奉行施与。如是者。若其然後中復悔。心中狐疑。不信分檀布施作諸善後世得其福。不信有無量清浄仏国。不信往生其国中。雖爾其人続念不絶。暫信暫不信。意志猶予無所専拠。続結其善。願名本続得往生其人寿命病欲終時。無量清浄仏。則自化作形像。令其人目自見之。口不能復言。便心中歓喜踊躍。意念言。我悔不知益斎作善。今当生無量清浄仏国。其人則心中悔過。悔過者過差少。無所須及。其人寿命終尽。則生無量清浄仏国。不能得前至無量清浄仏所。便道見無量清浄仏国界辺自然七宝城。心中便大歓喜。道止其城中。則於七宝水池蓮華中化生。則受身自然長大。在城中於是間五百歳。其城広縦各二千里。城中亦有七宝舎宅。舎宅中自然内外皆有七宝浴池。浴池中亦有自然華繞。浴池上亦有七宝樹重行。皆復作五音声。其飲食時。前亦有自然食。具百味食。在所欲得。其人於城中快楽。其城中比如第二忉利天上自然之物。其人於城中不能得出。復不能得見無量清浄仏。但見其光明。心中自悔責。踊躍喜耳。亦復不能得聞経。亦復不能得見諸比丘僧。亦復不能得見知無量清浄仏国中諸菩薩阿羅漢状貌何等類。其人若如是比而小適耳。仏亦不使爾身諸所作自然得之。皆心自趣向道入其城中。其人本宿命求道時。心口各異言念無誠。狐疑仏経。復不信向之。当自然入悪道中。無量清浄仏哀愍。威神引之去耳。其人於城中。五百歳乃得出。往至無量清浄仏所聞経。心不開解。亦復不得在諸菩薩阿羅漢比丘僧中聴経。以去所居処舎宅在地。不能令舎宅随意高大在虚空中。復去無量清浄仏甚大遠。不能得近附無量清浄仏。其人智慧不明。知経復少。心不歓楽意不開解。其人久久。亦自当智慧開解知経。明健勇猛心当歓楽。次当復如上第一輩。所以者何。其人但坐其前世宿命求道時。不大持斎戒虧失経法。心意狐疑不信仏語。不信仏経深。不信分檀布施作善後世当得其福。復坐中悔。不信往生無量清浄仏国。作徳不至心。用是故為第二中輩

仏語阿難。其中輩者。十方世界諸天人民。其有至心願生彼国。雖不能行作沙門大修功徳。当発無上菩提之心。一向専念無量寿仏。多少修善。奉持斎戒。起立塔像。飯食沙門。懸繒然灯。散華焼香。以此迴向願生彼国。其人臨終。無量寿仏。化現其身。光明相好具如真仏。与諸大衆現其人前。即随化仏往生其国。住不退転。功徳智慧次如上輩者也

阿難。若他国衆生発菩提心。雖不専念無量寿仏。亦非恒種衆多善根。随己修行諸善功徳。迴向彼仏願欲往生。此人臨命終時。無量寿仏即遣化身。与比丘衆前後囲繞。其所化仏光明相好与真無異。現其人前摂受導引。即随化仏往生其国。得不退転無上菩提。

復次阿難。若有善男子善女人。発菩提心已。持諸禁戒堅守不犯。饒益有情。所作善根悉施与之。令得安楽。憶念西方無量寿如来及彼国土。是人命終。如仏色相種種荘厳。生宝刹中賢聖囲繞。速得聞法永不退転於阿耨多羅三藐三菩提